南千住製作所の創業
昭和30年台に入ると、大企業の設備投資が活発化します。朝鮮戦争の反動的不況から立ち直り、昭和30年頃から紙、パルプ産業設備投資額が急激に上昇しまして、とりわけ昭和31年からは20年代後半の3倍、4倍の水準にまで達しました。当社の業績も順調に推移し、資本金も3000万(31年)、6000万円(32年)9000万円(36年)13500万円(37年)と増資をおこなってきました。また増資資金は最新機械設備の導入に当てられ、さらにはカレンダー工場の建設などに当てられました。
主な生産機は、昭和30年には、75吋上質用長網抄紙機、各種高速ダブルカッター、31年には72吋逆L型4本カレンダー、サーへースリール、密閉式自動混合機、ダブルカッター、32年には10頭竪型湿式連続伸線機、12パット動力ケーブル紙巻機、各種電線機械、33年にはグラシン用20段スーパーカレンダー、SHSG−4型13ダイス伸線機、34年には400m/m×115ボビン撚線機、最新式高速度集合機、35年には回転式捲出機、75吋エアーナイフ式高速度クレーコーターなど世界水準の機種を次々と生み出していきました。
また昭和35年には米国のプラスチック機械メーカーイーガン社と技術提携し、コーター、ラミネーターなど製品群により厚みを増しました。
昭和36年には合理化策の一環として社内の鋳物工場を閉鎖、製缶工場の建設を進めました。
昭和36年には真専之助氏が社長を退き会長に就任、青山佐平治氏が代表取締役に就任致しました。昭和37年の上半期の売上げは約3億6500万円、利益が約2500万円と過去最高となるなど好調を持続、工場の改築、社内設備機械の増設を進めました結局この年度は通期で約7億6千万の売上げ、約5700万円の利益となり、創業以来の最高記録となりました。
昭和38年には当時当社会長でありました、専真之助氏が亡くなりました。真会長は大正5年に当社に入社し、14年間経営責任者として経営の任に当たりましたがとりわけ電線・電纜関係の開発について力を発揮され、電線を製紙と並ぶ当社主要機種の礎を築いてこられた功労者でありました。またいくつもの公職を歴任、黄綬褒章、紺綬褒賞、勲5等など叙勲の栄誉も授かりました。
東京オリンピックの年でもあります昭和39年に当社は社是を制定致しました。
われわれは常に、親和勤勉を尊び、労資の繁栄を図る
われわれは常に、創意工夫に努め、一流の製品を作る
われわれは常に、誠実と責任ある生産を通し、社会に貢献する
このそしてこの年、先々代社長の高岡久夫が37才で常務に就任しました。創業者荒尾幾吉、池島三省の孫にあたりますが、東京大学工学部卒業後当社に入社し、各部門で経験を積み正に従業員の期待を担って就任致しました。 次号へ続く |

12月の工場北棟内です。
南千住製作所鈴木常務が特別顧問に
報告が遅れてしまいましたが、常務取締役として当社技術、生産部門を統括しておりました鈴木常務が14年の株主総会で退任され特別顧問として今後とも常勤し業務全般、とりわけ技術部門について強力なアシストを約束してくれておりますので皆様ごうか今後ともよろしくお願い申し上げます。 |
下がる駐車場料金〜デフレスパイラル
足立区梅島に当社有料駐車場がありますが、最近は駐車場料金もやや値下げしないと満車にならないようで当社も少しだけ値下げに踏み切りました。何でもかんでも値段の下がる世の中になってきましたが、単純に安くなって良いとばかりいってられなくなりますぞ!これはやはり先行き不安を解消しなければいけません。デフレスパイラルを止めないと我が日本は世界の中で沈没してしまいます。ビジョンなき政治、この間の国家・国民的資産の増加よりも借金額の増加ばかり目を奪われているような自閉的政治ではこの国の資源は欧米金融資本の皆さんや勃興中国の皆さんに浸食されてしまうのではないでしょうか。少し不安なのは私だけでしょうか。 |