南千住製作所の謎? トップページへ戻る
7月後半〜 |
南千住製作所の創業
南千住製作所には昭和43年に刊行した会社50年誌(374頁)がありますが、その中でこの南千住の地に工場創設されたのは明治33年(1900年)頃とのことで当時は福田工場と呼ばれていたそうです。その後明治36年に当社の創業者荒尾幾吉氏の個人経営となり、明治38年には南千住機械製作所と改称されました。当時は東京板紙会社の技師を兼任していた荒尾氏がオーナーという形でおられ実際の実務は岡本善之丞氏をはじめとする方々がみられておりました。
当初は千住製紙の機械修理改造の仕事も多かったようですが、明治38年頃からすでに円網抄紙機、その後長網ヤンキー抄紙機など製作し実績を積み上げていきました。
当時の納入会社では、美濃製紙所、堀内製紙工場、加藤製紙工場、登倉工場、高木工場、東北製紙合資会社、総武製紙合資会社、江尻製紙所(現巴川製紙所) 中村製紙所、江門製紙有限公司、西成製紙株式会社など記録されております。
南千住地域における工場建設のはじめは明治12年千住製絨所でその後明治21年に東京板紙会社千住工場、明治42年に大日本紡績、東京毛織物など続々出来ました。大正6年当時南千住にあった機械工場で15人以上の工場は10社に過ぎなかったようで当社及び当社系の南千住鋳造所併せて90名規模で大西鉄工所の122名に次ぐ規模でした。
この大西鉄工所も当社と同じ製紙機械メーカーでのちの当社専務になる小島福次郎氏が同社技師長を務めていたようで少なからず関係があったようです。
電線電纜機械につきましては大正5年頃から拡大しました(電線各社の工場建設等で)が当社が株式会社となった大正7年の設立時には電線会社からも発起人として参画していただくなど大変ご厚誼を受けました。電線機械の大量発注はその後しばらく続きました。 次回に続く
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鈴木常務はバトミントンの先生
鈴木常務は60歳の半ばだというのに元気!
地域や会社の近くでバトミントンサークルに参加する傍ら自宅地域の子供達にバトミントンを指導しております。毎週の運動量はかなりのもの、でも常務はバトミントンで体を動かすのが元気の素と減らす気配はありません。
最近ダブルスの部門で地元大会で準優勝になったとのこと、、まったく最近の60代は強いですねー。しかし会社でもかなりエネルギッシュですので健康の為にあまりオーバーヒートしない様願いたいものです。 |
荒川区の中で一番人口の多い町
南千住地域は荒川区の中で一番人口が多い地域です。といっても約三万人程度です。しかし今地域再開発が進められておりまして常磐新線の工事が進行し2万人規模の高層住宅群の建設も進められております。駅周辺も少し変わってきております。この南千住地域ですが荒川区の中でははじめて町になった地域で、昔は東京の工場地帯でもあり今とはだいぶ雰囲気が違っていたようです。 |

当社の夏場スポット
暑い暑い暑〜い夏です。
それにしても今年の夏は特に暑い。
しかし南千住製作所の工場の中2階はさらに暑いのです。その場にいるだけで蒸し風呂に入っているようなすごい場所なのです。隠れた穴場??かもしれません。
皆様今度夏場に工場にいらした折りにそういう場所に興味がありかつ心臓が丈夫で勇気のある方は一度お立ち寄り頂き、お試し下さい。
ただし下着も含めたお着替えをご用意の上さらにタオルもご持参(当社のお風呂に入っていただかないと中2階見学後は汗だくだくでとてもいられません)でないとけっしてお勧めはできませんが。
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尾花のうなぎ
南千住地域の中で結構有名なのが尾花。うなぎ店では結構名前が知られておりますが、実際においしい!
夏に限らずいつも混雑しておりまして待たされることもたびたび。しかしおいしいものはおいしい。客を通してから捌きはじますのでお昼の時間は時間が気になって大変ですが、夜はゆっくり味わえます。うなぎ以外の焼き鳥もとても柔らかくておいしいですよ。
ぜひお試し下さい。
お待ちしております。
花火
落ち着いてゆったりとした気持ちで花火を見たいものです |
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吉田社長から
「私の名誉の為一言言わせて下さい。
前回のこのページの自分の記事ですが、サッカーで包帯するほどのけがをするほど私はけっして柔ではありませんので、これ信じてください」との伝言がありました。 |
マンション管理組合理事長
どういう巡りあわせか昨年嶋田取締役はお住まいのマンションの管理組合の理事長をやっていたそうですが、今年は佐藤取締役がやはり250戸程度の管理組合の理事長をやっているとか、けっこう雑用があって大変らしいですよ。来年は誰に? |
当社近隣の花火大会
葛飾花火大会 7月24日
足立千住の花火大会 7月26日
隅田川花火大会 7月28日
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