南千住製作所の創業
南千住製作所は大正7年10月23日に株式会社として創立致しましたが、この当時から電線・電纜機械の製作が本格化し、ことに大正9年に藤倉電線殿(現フジクラ殿)深川工場建設に際してはその設備機械のほとんどを当社で製作・納入した他、横浜電線、九州電線、東海電線殿へ設備機械を納入するなど電線・電纜機械の実績を急拡大していきました。また新機種については住友電線殿のご厚誼を得、技術的な援助も戴いて開発を進めることができました。
またこの当時業況の拡大にともない工場の増改築と設備機械の拡充を図りました。
しかし大正9年には大戦後の全世界規模での不況の影響が出始め当社にも影響が出始めました。しかし当時20%配当が最悪期6%に達した程度ですみその後12%配当出来る業況に回復しました。
大正12年9月1日には関東大震災によって関東地方は壊滅的な被害にあい南千住一帯も被害を受けことに隅田川駅を中心として大小工場の密集したあたりは全焼し機械設備も全て鳥有に帰しました。
しかし幸い当社は工場の外壁が倒壊し、若干の施設・器物が損傷した程度の被害で済みましたが、やはり従業員の多くが被災したせいで1カ月間休業しました。そして業況としては、むしろ震災による焼損機械の修理、新設品の受注により回復傾向となりその後安定した業況へとつながりました。しかし災害特需ということもあり、利益は最低に抑え生産高を上げていこうという方針で当時の経営陣は対応したようです。(当時の営業報告書では)
この頃大正11年には平和記念東京博覧会に48インチ長網抄紙機を原質共一式出品し、政府から銀牌を以て表彰されるなど国内製紙機械のリーディングカンパニーとして新製品を発表しました。
大正13年には当時当社の岡本専務が株式会社大島製鋼所の理事を兼務することとなりました。大島製鋼所は東京製綱大島工場が分離独立したもので社長が日本製紙業界の重鎮、大川平三郎氏でありましたが大川氏から直々に理事を委嘱されたようで会社実務面では相当任され、当社との機械の共同製作など関係が強化されました。
その結果当時の日本最大の新聞抄紙機(富士製紙知取工場の142インチ長網機)の製作など実績を上げていきました。
この当時から従業員の就業規則などが整えられ昭和2年には最初の就業規則及び扶助規則が制定されました。それを見ますと当時の採用年齢は満16才から50才以下とあり、高等小学校を卒業し徒弟教育を受け、終了後に本採用されたようです。また退職年齢も50才ですから今から見ますと随分早いように感じられますが、当時としてはそれなりのものだったようです。
また当時の就業時間は午前7時から午後5時迄となっていまして、食事時間も30分でした。今から考えますと厳しいように感じられますが当時としては定められるだけましか、時間としては一般的なようです。
また給料は月2回払いでしたが当時としては都内でも有数の高給だったようです。また当時としては先進的な退職金制度も整備され従業員への福利厚生という面では相当手厚かったようです。
次号へ続く |

8月中旬の工場北棟内です。
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