南千住製作所の創業
前回より続く)
大正前期の製紙会社では新増設工場が相次ぎました。大正3年には巴川製紙所清水工場、帝国製紙(都島)、三井紙料(樺太大泊)、4年には尼ヶ崎板紙(尼ヶ崎)、樺太工業泊居工場、北越製紙(新潟)、5年には王子製紙十条工場、6年には王子製紙豊原工場、三菱製紙中川工場、日本化学紙料(樺太落合)乾製紙(吹田)、富士川製紙(富士川)、大正工業(富士根)、7年日本製紙(王子)、日本製紙千舟工場、日本紙器(亀有)などなど。
このような状況から製紙機械メーカーが活況を呈し大正5年には国産抄紙機9台、総網幅746インチ生産と明治以来の最高数を示しました。当社でも月島鉄工所と合作で100インチ長網を九州製紙に、大島製鋼所と共同製作で87インチ長網ヤンキーを東京板紙に納入致しました。
この頃当社は小野寺正敬氏という日本製紙技術の創成期の第一人者の血統をくむ会社として製紙大手諸会社の評価と援助を受け、一段の技術の吸収を図ることができました。
またこの頃当社創業者荒尾氏、池島氏と親交のあった黒板傳作氏(月島機械創業者、昭和7年〜8年には当社社長)、機械工学の権威関口八重吉工学博士らから機械工学の系統的な指導を受け一段と研究製作が進みました。
また荒尾氏の後を次いだ岡本善之丞氏は「紙の神様」ともいうべき大川平三郎氏(富士製紙、樺太工業社長)に嘱目せられ、大島製鋼所の技術スタッフに招聘された。これにより両社の技術が交流し、大川氏直接のアドバイスも得られました。
当社は個人会社、合資会社などを経て、
大正7年10月23日に資本金50万円で株式会社として創立しましたが、その発起人には当時藤倉電線社長の松本留吉氏や取締役の岡田顕三氏、中内春吉氏なども名を連ね、特に岡田氏はその後当社取締役、監査役なども歴任され製紙部門とならぶ当社の柱である電線部門の礎を築かれました。
続く |
南千住にも浪速屋がある
浪速屋さんというと麻布十番のたい焼き屋が有名ですが、南千住にも駅前すぐそばに浪速屋さんがあります。何でもたい焼きを作る鉄板は麻布十番の浪花屋さんで使っているものも南千住地域の職人さんが製作したものだそうで、むしろもともとは南千住浪花屋が創業店かもしれません。およげたい焼き君の歌が流行った時には今より賑わったようですが、小さなお店の中には先代の当時の新聞記事などもあり時代を感じさせてくれます。
ところでたい焼きですが皮が薄くてあんこが尻尾まできっちり入り甘すぎずほどよい味でたい焼きとしては最高ではないでしょうか。
一個130円と値段もお手頃、ぜひ南千住にお立ちよりの時にはお土産にどうぞ。
 |
南千住駅前の金太楼の常連は誰
駅前のすし屋金太楼に週3回は通っている常連さんは、奥様が公務員で生活費の心配をあまりしなくてもよい方だとか。もっともご本人は金太楼はリーズナブルなお値段なので心配するほどでは無いとか。でも寿司屋でワインと野菜サラダは無いんじゃありません?
(答えは次回に) |
|
南千住駅は現在工事中
南千住駅は現在常磐新線の建設(線路、駅)でがたごととしております。
常磐新線が出来ますとこの地域もよりいっそう賑わうかなと思います。ただし現在の人口集積地域は空き地が少なくなかなか再開発は大変で、やはり隅田川操車場側の開発によるところが大きいかと思います。
人の流れはハッキリしたもので、旧市街地が再開発でもたもたしているあいだに新地開発が進み、人の流れもそちらに移動する例がたくさんありますが、さて南千住地域の十年後はどうなるでしょう。
 |
南千住製作所の付近には鮮魚店が無い
南千住製作所の付近には特に鮮魚店さんが無い。付近のマンションの住人は少々離れた場所まで買いに行くか、リヤカーの荷台に魚を載せ行商に来る魚屋さんから買っているようだが、少し不便かも。もし近くに鮮魚店ができたら流行ると思うのですが、魚屋さんいらっしゃい。 |
|